【感想】喪142:モテないしきーちゃんの進路も決まる
返す返すもきーちゃんを月に擬えるポエジーがエモかったのでいくらかピックアップして語ります。
「お姉ちゃんと一緒に学校の中歩きたい」という当初の目的からすればここがクライマックスのはずだが、この翳り様。
月蝕を思わせる構図が己の姿を見失う月(アイデンティティの危機に陥るきーちゃん)を暗示してる、っていうのは言い過ぎか。
しかし、「いつもみたいに座って」って相当レベル高いな…。
機会があったら授業参観にも乱入してきそう。
全ての元凶にして二人の思い出の場所、駄菓子屋。
「ここって……」に対するリアクションがないことから、何らかの理由に基づいた決断的セレクトであることが窺える。
そもそも、もこっち自身は駄菓子屋に来たくなかったのだから、きーちゃんの中の疎外感、寂しさみたいなものを感じ取ってないとここは選ばない。
ジュースを受け渡す所作にもお姉ちゃんらしさが出てるし、エンジン温まってきたか。
今回横長のコマが多くて、意図的かはともかく二人の歴史の長さを想起させる。
後ろから二人を見る構図も結構目につく。
喪62の扉絵みたいで、意識して読むと走馬灯じみてきた。
後述のアイカツエピで小学生が後ろから見て左、中学生が右に配置されてることも留意したい。
漫画は原則右から左に時間が流れるということも。
あと、けもフレにせよカードゲームにせよ興味の移り変わりについていけてないきーちゃんのおばあちゃんみが深い。
ずっと側にいる発言とかのび太のおばあちゃんやん。
「もう大人だしね…」を受けての「カードゲームやってる暇ないもんね(年下の子に構ってる暇ないもんね)」という諦観を含んだ物言いには色んな問題が集約されてる。
すなわち、純粋にお姉ちゃんを慕ってた気持ちを「やさしくしてあげたい」「何かしてあげよう」(喪16参照)という殻で覆ったこと。
「お姉ちゃんの為に」という存在意義が喪失の危機にあること。
そして、その喪失を受け入れつつあること。
おそらく、もこっちが一言「うん、そうだね」とでも言えば、きーちゃんは「そっかあ…」ぐらいの感じで自分が不要になったという認識を受け入れただろう。
何故なら「お姉ちゃんの為に」そうすることが最良だから。
しかし、実際にはもこっちはそんなことを望んでないので、すかさず「違う、そうじゃない」とばかりにアイカツ中学生のエピソードをぶっ込んで、「きーちゃん不要論」を否定する。
更にもこっちは、あまり来たくなかった駄菓子屋に来た理由を「きーちゃんちょっと元気なかったから」と説明。
ここでのきーちゃんの心情の変化は複雑過ぎてちょっと言語化出来る気がしないが、もこっちにとって自分は要・不要で計る存在ではないことを理解→心ありきで生きることを受容→優しいお姉ちゃんが純粋に好きだったことを思い出す、って感じだろうか。
とにかく、ここで「お姉ちゃんの為に」から「お姉ちゃんのことが好きだから」へと関係性の再構築があったと考えてる。
次の貢ではかなり力強く重厚にお姉ちゃんに対する気持ちをぶつけてるし、太字の「大人だね」もかなり調子を取り戻しての発言に見えるし。
ここの長台詞は素直に読むなら、お姉ちゃんが変わらなくてもお姉ちゃんは大丈夫(私がいるから)という意味に取れる。
しかし、「お姉ちゃんが中学生で私がその小学生なら」という図は実際には逆で、変われないままでいるのはきーちゃんの方である。
そうすると、「悲しくないよ」、「さびしくないよ」という言葉は自分の気持ちを表明しているようにも読める。
すなわち、「お姉ちゃんが変わってしまっても私は大丈夫。何故なら、それでもお姉ちゃんと私は共に存る(ずっと側にいる)し、私は私の心に従ってお姉ちゃんを想い続けるだけだから。」という通告である。
キーホルダーをもらった時のうっちーも似たようなことを言っていたが、今回は目的もシチュエーションも違う。
自分はこれを「卒業出来ません」という意味の卒業宣言であると解釈した。
前述した通り、きーちゃんは「お姉ちゃんの為の自分」に依存することを止め、「お姉ちゃんのことが好きな自分=ありのままの自分」へと原点回帰したからである。
極めつけに「しょうがないよ」と総括。
きーちゃんの抱える問題に対する答えが全てこの「しょうがないよ」に集約されてる。
私がそうしたいんだからしょうがない。
それでもお姉ちゃんが好きだからしょうがない。
そんなお姉ちゃんが好きだからしょうがない。
お姉ちゃんが好きだから甘えたくなるのもしょうがない。
たとえお姉ちゃんが私を嫌ったとしても。
きーちゃんは、自分がもこっちに執着するのはもこっちのせいではなく、自分の心がそうなったからしょうがないということを受け入れたのである。
そして、この安らかな満足顔。
駄菓子もたっぷりめに買ってあったし、あれからも長時間話し込んだっぽい。
加藤さんの時といい、もこっちが人を笑顔にする天才みたいになってるな。
分かれてる寝床からもきーちゃんの自立(離れても平気)が見て取れる。
もう二度とサイコきーちゃんにはなるまい。
月は地球に求められてそこにいるわけではなく、ただ地球の引力に引かれて離れられないだけである。
それはもう万有引力がある以上しょうがない。
もこっちに惹かれて離れられないきーちゃんも同様。
もこっちの夜(ぼっち時代)を照らしたきーちゃんの象徴が月なのはこの上なく似つかわしい。
余談にも程があるが、2018年5月1日の月齢は15(満月)である(https://www.arachne.jp/onlinecalendar/mangetsu/2018/5/)。
しかし、きーちゃんにとっては新しくてか細い真っ直ぐな光に違いない。
それはたった一年(たった一年!)一緒に大学に通うという、目標と呼ぶには余りにも消え入りそうな光だが、きーちゃんがそうしたいと決めた以上はしょうがない。
あとは、自身が放つ光に沿って進むだけである。
しかし、ここで改めて見ると、「きーちゃんの進路も決まる」っていうタイトル、何気ないけどかなり神懸り的やな。(了)